泉水博さんのこと
2012-09-25


私が泉水博(せんすい・ひろし)さんの名を初めて知ったのは1975年。駅のホームでたまたま拾って読んだ週刊紙でやった。「千葉刑務所で暴動騒ぎ」という記事や。
 泉水さんは’61年、強盗殺人罪で無期の判決を受け(主犯の兄貴分が警察の取調べの段階で自殺。見張り役の泉水さんが殺人の罪までかぶせられての判決。)千葉刑で14年近くを模範囚で務め、仮釈放が目前の「一級」の処遇になってた。その仮釈放をふいにしてまでも決起したのは、決して一時の激情にかられたからではなかった。
 泉水さんの同僚で無期懲役の横田さんは、食道静脈瘤で傷口からの吐血を繰返していた。このままでは静脈瘤がいつ破裂するかしれない……模範囚の泉水さんは、毎日付添いを許されてたから横田さんが吐血するたびに駆けつけ、危機感をつのらせていた。病院に移して手術するよう何度もかけあった。しかし、刑務所側は横田さんを放置したまま。このままでは死んでしまう……泉水さんのぎりぎりの、やむにやまれぬ、綿密に計画した看守部長人質計画やった。だが、無念にも、この計画は、看守に傷を負わせ自らも取り押さえられて失敗に終ったんやった。
 ふつうなら、こんな「大事件」が起きても、当局によって隠蔽され、それでおしまいや。ところがこの事件は新聞報道され、国会でも取上げられる事になった。
 泉水さんは出所間近の野村秋介さんにこの計画を打明けていた。一部始終を目撃した野村さんは、出所してすぐに新聞社に向ったんやった。
 それで、わたしもこの「事件」を知ることになったんやけど、週刊紙を読み終わって、もし自分が同じ立場にいたとして、こんなことようするやろか……わたしにはとてもできん……と考え込んだことを覚えてる。泉水さんの義侠心の厚さは人並みでない。
 そして、この千葉刑務所でのたった一人の反乱≠ェ、遥かな中東の日本赤軍に注目され、やがてハイジャックによる人質交換要員として指名されることになった。
 
 ’75年5月19日、東アジア反日武装戦線の8名が一斉逮捕。そして、8月4日、日本赤軍は在マレーシア米大使館とスウェーデン大使館を占拠して、獄中政治犯の解放を日本政府に要求。東アジア反日武装戦線からは佐々木規夫さんを出国させた。
 更に日本赤軍は’77年9月28日、ボンベイで日航機をハイジャック、政治犯の解放を要求した。泉水さんはこのとき指名された9名のうちの1人なんやった。
 羽田空港から飛び立つ日航機のタラップをのぼっていく姿をわたしはテレビで観ていた。泉水博さんがいた。「あの泉水博さんや」と思った。
 旭川刑務所に在監していた泉水さんは、突然舎房から呼び出され、判断材料が何一つない中で、「自分が行かなかったら人質が解放されない」というただその一心で、縁もゆかりもない日本赤軍の指名に応じたんやった。検察の強い反対の中、日本政府は「超法規的措置」で泉水さんを釈放をした。
 それから11年経った’88年6月7日、泉水さんはフィリピンで逮捕。超法規的措置で釈放したにもかかわらず、「遁刑」とみなし、事件後一ヶ月も経ぬうちに、国際指名手配されていたんやった。
 松下竜一さんの本に『怒りていう、逃亡には非ず──日本赤軍コマンド・泉水博の流転』(河出書房新社, 1993)がある。「怒りていう、逃亡には非ず」はまさに泉水さんの怒りの叫びや。
 松下さんがこの本をかくことになったのは、’88年1月29日、唐突に警視庁の家宅捜索を受けたからやった。令状には〈被疑者・泉水博 違反容疑 旅券法違反〉とあった。ようするに泉水さんが旅券を偽造した。その偽造旅券をつくるのを松下さんが手伝った──という容疑のガサなんや。名前も知らん、会ったこともない、どこの誰とも知らん者の偽造旅券をどうやって手伝うんや。あんまりバカバカしくて、思わず薄笑いを浮かべてしまったと、書いてはるけど、同じ日に同じ容疑でわたしとこにもガサがきたんやった。(このとき丸岡修さんのとあわせて、全国300ヶ所に同じ容疑のガサが入った)


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