死刑と冤罪
2007-08-26


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 23日、長勢甚遠法務大臣が死刑を執行させた日が、サッコとバンゼッティの処刑からちょうど80年目の日やった〓〓ということをあわせて中島くんがblogに記事をよせた。でも、このふたつはどう結びつくの? と、きっときかれるやろ、とも思ったんや。
 死刑制度賛成のひとでも、冤罪でひとを死刑にしていいとはいわんやろ。そやから、めったにない冤罪で死刑になったサッコ&バンゼッティたちの死を悼み、その死刑執行に抗議することに、誰も反対せえへん。でも、今回死刑執行されたひとたちは冤罪とちがうんやろ、いうて……。

 さっきまでおしゃべりしていった近所の大工さん夫婦(2年まえに屋根をなおしてもろた)は、光市事件の犯人は絶対許せない、今度の新しい弁護士は事実をねじまげてまで弁護してる、おかしい……と云うてた。そやから、わたしもつい長話になってしもたんやけど、カレー事件にしてもなんにしても、わたしらは手もなくマスコミの報道に影響されてしまってる。
 警察がいってること、マスコミがいってること、政府がいってることは、まず疑え。
 冤罪いうのはめったにない〓〓なんて、ウソっぱちやで。この社会のあり方、制度、構造の問題として、冤罪はいつも起こってる。
 たとえば、きのうも長居公園のNくんが逮捕された。でも、こんなん警察が使ういつもの手や。まったく露骨で意図的な冤罪事件やんか。そしてこれまでの、冤罪死刑囚のおびただしい実例をみてごらんな。
 わたしが知ってるだけでも、今現在獄中から冤罪を訴えながら金もなく力もなく、そのままうち捨てられている人が何人いることか。
 光市事件のように冤罪事件でない裁判では、ちゃんとした弁護人もつかず、いいかげんな審理で、実態的真実が解明されることなく判決が下されることがほとんどや。(光市事件では最高裁になってはじめて、安田さんをはじめとする弁護団が組まれ、客観的事実を一から検証しなおす作業がやっとはじまったんや)そやから、間違った事実認定で量刑不当、部分冤罪の判決を受けてるひとは決して珍しいことではない。
 権力は冤罪をつくりだす。どうしてもつくりだす。民主主義制度のもとで、冤罪をつくりだす。それが権力や。

 なんで犯罪がおきるのか? それにこたえるのはそう簡単なことやない。わたしらもその一端を担ってるこの社会全体がつくりだしてるものや。それを国家のする死刑で一件落着というわけにはいかへん。
 国家の意図的な冤罪と、制度がもつ必然としての冤罪が避けられない以上、死刑はどうしても廃止されなけらばならんのや。
 大逆事件をでっちあげた平沼騏一郎やら武富済やらの子孫は、いまものうのうと、息してるやろ。どうしても死刑制度を廃止できないというなら、冤罪で死刑をだした裁判官や検事、それを意図的に作り出した捜査官やらハンコをついた大臣は死刑という条文を付け足してもらいたいもんや。(風)

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