絞首刑のあとで
2008-04-20


粛々と、という言葉は、なんと卑劣で誤魔化しのことばであることか。
 四月一〇日。ひる過ぎ、仕事中のコンピュータでニュースを盗み見て、ぼくは「死刑執行」があったことを知った。鳩山邦夫法相の、三たびの絞首刑命令だ。東京で二人、大阪で二人。「バタンコ」の上に立たされて、音とともに下へ落とされたのだった。
 翌日の夜八時、平山まゆみさんから電話をもらって、ぼくは東京拘置所で縊られた岡下(秋永)香さんのお別れ会に参加することができた。
 会場は山谷労働者福祉会館。小菅から荒川と隅田川を隔て、ほど近いそのあたりは、いつものように人が地べたに眠り、たっぷりとよごれ、ぬれていた。
 会場には、四人のご家族、交流のあった仲間たちが集まり、お別れのときにはだいたい三〇人ほどになっていた。部屋へ入ると、棺の中をのぞき込んで何かをたしかめて、座る。その仕草はみんな似ていた。
 棺を前にして坐り、これまで岡下さんとかかわりをもってきた人たちやご家族の声をきいた。遺体引き取りのさい、弁護士の立ち会いを拒まれたこと。面会時のエピソード。手紙のやりとり。シスターの語った、未熟な社会があなたを殺させてしまった、申し訳ない、という言葉。とぎれることがなかった家族との関係。それぞれが口をひらいたが、その言葉はあちらこちらを向いていた。言葉の先には、岡下さんがいたり、たったいま時間を共有している仲間がいたり、あるいは語る人自身がいた。突然、存在が消えるということは、こういうことなのだと思った。
 ある方から、棺の中の岡下さんと会って、やすらかな顔をしていると感想がもれた。いまはもう、やすらかであることをみんなが望んでいた。でも、これは、けっしてやすらかな死とはいえまい……。だれもが心の中だけで思ったのは、「無念」ということだ。ぼくは棺の中の岡下さんの顔を見ながら献花した。黄色とオレンジのガーベラを、腰のあたりにおいた。
 本人が希望したという献体までの予定を数時間延ばして確保したわずかな時間を、静かに、一秒一秒、いままで生きていた人間の存在を、確かめ合うような切ない会だった。閉会まであと一五分というところで、お茶と菓子が回された。熱すぎて飲めないお茶を紙コップからみんなですすった。煎餅を齧る音も少しした。帰り道、ご家族が、問わず語りに、(岡下さんは)最後に、こうして、みんなといっしょにいることができてよかった、と云うのを聞いた。あのお茶はわずかな共有の印だった。
 一〇時五分前、棺が担ぎ出された。狭くて急な曲がり階段を、七、八人がかりで抱え降ろした。足を下にして、と声がかかる。すると、棺のなかから水が流れ落ちてきた。溶けたドライアイスだった。もうこぼれんばかりの花々でいっぱいになった棺は、黒塗りの大学病院の車にのって、クラクションもなしに、ゆっくりと走り出した。
 ウリ東京・中島雅一

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