小田実さんの死
2007-07-30


今朝、選挙の結果はどないなったか思て、テレビをつけたらいきなり「小田実氏、癌で死亡」いう報せ。外はどしゃぶりの雨やんか。
 小田さんが癌で入院してはるいうのは知ってた……。
 小田さんは、痛みをこらえながら、夜中の選挙速報をきいてはったんやろか。民主党の圧倒的な勝利は夕べのうちにわかってたから、それをどんな思いで聞いてはったやろ。
 それにしても小田さんの今朝未明の死いうのは、なんとも暗い先行きのまえぶれような気がする。
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 わたしは小田さんと個人的な付き合いは全くなかったけど、小田実と聞くと、思い出せばいろんなことがあった……。
 高校一年のときや。学校のかえり、本屋で「何でも見てやろう」を偶然手にして、買ったんやった。それ以来小田実の熱烈なファンになった。雑誌でもなんでも、小田実という名を見つけると、まるで恋人の名をみつけたように胸がキューンとした。本も雑誌もみな買った。
 高校を卒業した夏、小田実にとうとう会いに行った。そのころ小田さんは東京代々木ゼミナールの舎監をしてはった。会うには会ってくれはったんやけど「女中はいらん」いわれてショックやったなあ。誰か「女中にしてくれ」いうファンレターでも書いてきてたんかしら。
 すっかりしょげて田舎に帰ってきたんやけど、小田実がそのころいうてた「加害者の論理・被害者の論理」いうのがずっと胸にひっかかったままで、わたしは、そのとき洋裁学校に通ってたんやけど、思いつめて、米子のいまは閑散としてしもた商店街にある銀行の前で、一人「ベトナム反戦」のビラを配りだしたんやった。
 それから、「ベトナムへ医療品を送ろう」いうて、一軒一軒知らない家にカンパを募ってまわってたとき知り合った是永さんとふたり「米子べ平連」を名乗り、「殺すな」いうビラを新聞折込にだしたり、商店街をデモしたり、鶴見俊輔さんにきてもろたり、脱走兵を匿ったり……。
 そして、とうとう小田実を講演によぶことができた。やっと念願がかなったというわけやった。
 それからしばらくして、私も小田実のいる東京に出ていったんやけど、山谷に通うようになったら小田さんへの恋心も冷めてしまって、本も買わんようになった。八〇年代になってから、「大の男」と「小の女」いう小田実を批判する文章を書いたこともあるな。それからはもう縁がないまま、いつのまにか長い長い年月がたってしもたんやけど、わたしが今につながる最初の道しるべに小田実がいたことはたしかや。
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 「べ平連」いうのは、組織やない。小田さんが代表のように言われたりしてるけど、実際は「会長も代表もおかない」「運動体」なんやった。何をすればいいでしょうか〓〓なんてきいても「一人ひとり自分で出来ることを自分で考えてやる」いう答えしか返ってこん。それがべ平連や。
 それまでの運動いうのは〈組織〉の〈集団意志〉、つまり〈統一と団結〉で、なんでも上からの指令や命令で動くのが当たりまえのようにみな思ってたんや(まあ、いまもたいして変わってないようやけど)。学生運動でも労働運動でもみなそうや。
 いま、日本を動かしているこの政党政治なんてのは、その典型や。議員個人は〈党〉の〈党則〉に縛られ、違反すると処罰される。自由な個人の行動なんてもんは認められん。
 それに対して、べ平連は、〈個〉の自発性・主体性・恣意性〓〓ようするに自分自身の内側から出てくる〈おもい〉をなにより大切にするということやねん。それはわたしの気持にスッと入ってきて、違和感ないもんやったし、全国各地に同じ思いをもったひとりベ平連、ふたりべ平連がそれこそ地から湧き出すようにあっちにもこっちにも出現したんやった。
 そんな個々のおもいおもいのばらばらでは、とても敵に勝つなんてことはでけへん〓〓いう考え方も依然として強くあるわけやけど、わたしが最初にであった、この多様でアナーキーな個別の運動の方向の先にしか未来はないやろ。
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